『マッドマックス 怒りのデス・ロード』初見感想

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(原題『Mad Max: Fury Road』)を見た。ほとんど前知識がないままに見た。『トゥモローランド』か『チャッピー』あたりが気になっていたんだけれど、知人に勧められたから観たのである。とはいえ見る直前、電車の中で少し情報を調べてみたのだが、それでもとにかく「ヤバい」「痛快だ」などという感想しか出てこない。とりあえず『北斗の拳』の元ネタになったシリーズが30年ぶりに新作を出した、ということを念頭に映画館に入った。
 席についてから隣を見ると、いくつか席を空けた先にスキンヘッドの外国人男性二人組が座っていて、「WOW」と思っていたら、前の列にぞろぞろと5人ほどの外国人(一人は女性で、一人はモヒカンであった)がやってきて、「マジかよ」と思った。(彼らは劇中の銃を扱うシーンなどでたびたび「HAHAHA」と笑っていて、良かった。)


 さて、映画が終わってみると、エキサイティングした僕の頭はすっかりマッドマックスに感染していた。後日この奇妙な体感を、何人かの人に伝えようと思ったのだが、ことごとく失敗した。骨であるストーリーを語ろうとするとスッキリしすぎているし、肉である面白かったところを面白く語ろうとすると、ギャグの面白さをワザワザ説明する的な油っこさがある。この4,5日、解説しようとするほど、頭悪く唸るしかなかった。


 僕はパンフレットも買えていないし、過去の『Mad Max』シリーズも未見、こういったアクション映画もあまり見ていない立場だが、自分なりに整理するためにも、以下にこれから〈ネタバレ回避感想〉と、映画が終わってから頭に引きずっていた〈ネタバレ込み感想〉を書きたいと思う。



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〈ネタバレ回避用感想〉
 まずは作品を見る前の前提として。本作はR15指定だがよっぽどのビビリで無い限り、意外なことに直接スプラッターな表現やエロ描写はあまりない。『ジョジョ』シリーズなんかが大丈夫なら問題ない。僕は残念ながら(?)2Dの字幕版を観たのだが、元気があるなら3D、そして4DXを体験すると遊園地のアトラクション顔負けの楽しさを味わえるだろう。僕はもう一度観るならせめてIMAXで観たい。過去シリーズ3作は見なくても楽しめる。むしろ、本作はスピンオフなのではないか、というくらいに、物語上の主人公マックスは目立った存在ではないし、彼の何かが解決する話というわけでもなく見える。


 twitterなどの感想では「ヒャッハー」の言葉がひとり歩きしている感もあるが、『Fury Road』の世界は原始的なものだとイメージしてもいい。部族ごとの衣装やガジェットの違いが眼に楽しく、太鼓の音と共に、槍が飛び交うバトルシーンは、戦闘騎馬民族同士の戦いのようでもある。そういった意味でこれはロードムービーであり、日本人の僕たちから見るとアメリカのノリが強調されて見えるのかもしれない。


 誰かの感想に「予告編のテンションがずっと続く」という表現もあったが、実際は予告編で使われている映像すら本編でも予告編のように過ぎ去っていく部分だったりする(世界観の説明は冒頭、端的に終わるのだ)ので、あとは本当に奇天烈な車のカーチェイスと横転・爆発・砂煙が交互に続いていくという、予告編の倍くらいにテンションが高い内容だ。上映中はというと、爆笑の連続。もはやどこまでがギャグなのか分からないような、中学生が考えそうなガジェットや演出が山ほど出てくるのだ。ベタベタの演出やオマージュなどで随所で笑わせにくるので、「こんなん笑うやろ!」が僕の最初の感想だった。しかし褒め言葉として「プロットもストーリーもない」「IQが低い」という極端な感想も目につく本作であるが、実際そんなことはない。勢い良く進むストーリーはアクションのために用意された行き当たりばったりのように思えるかもしれないが、この映画は神話的冒険に思われた。せわしない展開に、頭のなかが「ヤベエ」の一言に支配され絶句してしまうわけだが、バターの唐揚げのような雑な作りだったという訳ではなく、思い返すほど設定作りや画作りに奥深い味がある。英雄神話としてこの映画が幕を閉じるとき、なかなか爽やかな気分にはなった。



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〈ネタバレ込み感想〉
 『インターステラ―』では主人公のいる地球では、農作物のことしか考えられないほどに人類は追い詰められていた。本作は放射能汚染後の砂漠化した世界「ウェイストランド」が舞台。仮にこの荒廃した世界が『インターステラ―』で捨てられた地球の後の姿、と見立ててみると、ウォーボーイズは訓練された太鼓を叩き鳴らし、凝った改造車に乗って爆走している。なんと人間たちは結構文化的に暮らしていのだ…!監督のジョージ・ミラー宮崎駿をリスペクトしていると発言していて(>「マッドマックス」ジョージ・ミラー監督が激白「宮粼駿は、私にとって神」http://eiga.com/news/20150605/28/)、それを考えると『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』の世界を思い出す。宮粼駿は、たしか「もののけ姫」のドキュメンタリで人こんな内容のことを語っていた→例え人類がごく少数になったとしても、それでもなんだかんだ暮らしているならそれは滅びたとは言わない…(曖昧な記憶)。本作ではマックスでさえトカゲを食べてしまうような極限世界にも関わらず、こういった文化的意匠が豊かであるところが面白さかもしれない。関係ないが、映画を見ながら、ニュークスの存在はカオナシっぽいな、とか思った。


 映画を見終えて一番「おや」と思ったのは、この映画の主人公格が女性だった、ということである。とか言い出すと「フェミニズム云々〜」とか思われるのかもしれないが(実際公開から時間が経ってtwitterも荒れてきているが)、『北斗の拳』的なマッチョな世界を想定していた自分としては「鉄馬の女」が大集合してシタデルへ向かったあたりで「あらまあ」と思ったのである。口数がとにかく少ない主人公マックスは、強靭な肉体を持っているとはいえ草食男子さながらの振る舞いである。妻子を失い極限状態をサバイブしている、という設定上、マックスと女性が肉体的に触れ合うシーンは微塵もない(笑ってしまうほどB級の鑑賞者用のサービスシーンはあったけれど…w)。そして言うまでもなくこの作品に登場する男性陣は改造車を乗り回し、戦いに明け暮れており、その生涯を”趣味"にささげているかのようだ。この世界の未来を冷静に眼差すのは、フュリオサやジョーの5人の妻、そして「鉄馬の女たち」だった、と僕には見えた。ただ、“独裁"から開放されたその後の”復興”は、さぞかし大変だろうなと思った。当然の話だけれど、この映画の終わりは、フュリオサたちの苦難の物語の始まりでもある。もちろん映画のメッセージは「私達はモノじゃない!」というところにもあるので、それはマックスがはじめ輸血袋扱いされていたところからのニュークスの目線の変化からも分かる。


 さてしかし、死んでしまったスプレンディドとその子どもには可哀想であるが、この映画で人類が遺した「種」は、イモータン・ジョーの子種ではなく、様々な「植物の種」であった、という見方もできるかもしれない。人間の愛に気づいて死んでいったニュークスの物語なども含め、人間の生命観や生き様について様々なメッセージが登場人物から発せられていただろう。放射能により長くはない命を持ち、ジョーのためなら特攻を辞さない狂信的な「ウォーボーイズ」の存在も、昨今の時事問題に絡めようとすればいくらでも切り口が用意できそうである。素直に「ヒャッハー」せずにダラダラ書いてしまったが、クリエイターのはしくれとしてはそうはいかないのだ。口につめこまれたパンケーキはなんとか味を確かめながら消化しなくてはならない。『Fury Road』が豊かな可能性に開かれた映画であったことを少しでも整理できたならよいのだけれど。この映画はきっと頭の中に後からジワジワと効く何かの種を埋め込んだはずなのである。ああ、もう一度やっぱり観たい。