「キメこな問題」について・カオス*ラウンジ藤城嘘の見解

・はじめに


以下は梅沢和木氏の作品について起こった「キメこな問題」を前提としています。
参照:
「5分で分かるキメこなちゃん盗作問題のまとめ」
http://blog.livedoor.jp/ftbplus/archives/51774479.html ※前提としてこの記事は客観的な編集ではないことを主張させていただきます
梅ラボmemo? 「うたわれてきてしまったもの」
http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524


また、本文章は、「カオス*ラウンジ」のあり方についての私藤城嘘の個人的なお願い・謝罪・立場表明です。






・「カオス*ラウンジ」及び「キメこな問題」、藤城嘘黒瀬陽平梅沢和木にご意見のある方へ



「カオス*ラウンジ」に過去参加いただいた方、関連企画に参加された方、参加されている方、以上の方々はご好意で作品を提供してくれていました。
「カオス*ラウンジ」は必ずしも全員が一丸とした目標を持ったり、理念を共有している団体ではありません。
主催者である藤城嘘黒瀬陽平の二名が中心となり、展示・企画毎にこちらのお誘いで作家さまを誘っておりました。
理念や意見の共有は、主催者と梅沢和木等の積極的な協力をしていただいた数名で行われていたというのが事実です。


運営の責任は黒瀬陽平藤城嘘の両名にございますので、ご意見・クレーム等ありましたら「カオス*ラウンジ」について過去の関係者個人へでなく、まずこちらへお寄せ下さい。


info@chaosxlounge.com






・カオス*ラウンジでお世話になっていた、お世話になっている皆様へ。



梅沢の「キメこな問題」が影響し、様々な方からご意見をいただく一方で、問題の本質には関係のない悪意ある攻撃が何名かの関係者へ降りかかるようなことが起こってしまいました。
今回梅沢の作品の創作性の主張を重視した一方で、この事態へ至ってしまったことについての皆さんへの責任について考えることが遅れてしまったというのが事実です。


この度は私、藤城嘘の無責任な振る舞いでご心配・ご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありませんでした。
対応があまりに遅い、というお叱り・お怒りはしっかり受け止めさせていただきます。


一昨年に黒瀬陽平との共同企画を決意してから、また去年4月「カオス*ラウンジ2010」プロジェクトを始めてから、私はずっと「カオス*ラウンジ」の方向性についてを決断できずにいました。
それは「キュレーター」「主催」「アーティスト」「プロジェクト」「企画」「展示」「アート」などなど、あまりに既存の言葉にあてはめようともがき続け、「本来私がやりたかったこと」の核を見失い、企画を進めてなんとか成功を掴もうとしてのことでした。
昨年については、経験の機会を逃すまいと、とにかく前へ前へとプロジェクトを進行することに集中しすぎて、作家の皆さんの連絡の行き届きの不全や、皆さんを不安にさせるような企画進行を行い、その後の説明責任も果たせずにいたことをお詫び申し上げます。


それは時に、多くの考えの揺らぎを生み、様々な問題に対してその場しのぎの対応をし、結果ここまで皆さんに迷惑をかけることとなりました。
作家としての黒瀬さんからの期待も何度か裏切っていたかもしれません。
お世話になっている皆様には関係者説明会開催の旨をお送りさせていただいているかと思いますので、
その際にまた改めてお詫び申し上げ、今後のビジョンについてきちんとお伝えさせていただきたいと思います。






・キメこな問題を通しての私の立場表明



まず第一に、「キメこな」という多くの匿名の人によって作られたキャラクターを作品の主題として使うために、安易に出自先のURLを晒して、結果某所を著しく荒れさせてしまったことについて、梅沢と共にお詫び申し上げます。


この謝罪に対してご納得いただけるかは皆さんの判断に委ねるところでありますが、私の立場から責任がとれるのはここまでとなります。
画像データ、というものはその性質上、ネットのあらゆる場所へ流出するものです。
すべての画像について、いつどこで作られ誰に権利があるのかを判断することは不可能ですし、その保存や使用は個人の自由となります。


結論から言えば我々はこれからも、ネット上の画像を使用した作品を作り続けていきます。
梅沢の表現は独創性があり表現として十分な強度をもっていて、素晴らしいものである、この考えは変わりません。
彼の作品には膨大な表現の可能性が詰まっています。
この表現を安易に否定することは、私はとても恐ろしい事だと思います。




では具体的に、梅沢の創作の本質について、私の考えを書かせていただきます。


梅沢はネット上の画像を膨大に収集し、その画像のコラージュによって作品を作ります。


三者の制作したイメージ・画像を許可なく使用するということは、もちろん 創作の原点である権利者の意図にそぐわないことがほとんどです。
しかし、断言しますが、第三者のイメージをベースとして創作することは一般的な二次創作と同程度のグレーゾーンです。



まず、大前提として、梅沢は(無論カオス*ラウンジ自体も)、第三者を偽り、公式を偽ってお金を儲けるために作品を制作している訳はありません。
それはもちろん、その作品を見れば明らかでしょう。
パーツや画像の断片に分解され加工されたイメージは、「公式の発表したイメージ」であることを微塵も想起させません。
法律に関してはグレー。そして、セーフなのかアウトなのかの判断は、権利者が声を上げて初めて決まっていきます。


「自分の好きなキャラクターがバラバラにされて気分を害した」という意見があるかと思います。
それを否定する気はまったくありません。それは個人の感情の問題になり、他人には踏み込めない領域です。
その人の「正義」があります。


しかし、「キャラクターをバラバラにして表現をすること」を"悪"とは言えません。
大好きなキャラクターを、刻んだり、絵の具を上から塗り重ねたりして愛を表現する人がいることも事実であり、これもまた他人の干渉できない「正義」の問題です。


こんな暴力的な表現は作者のリスペクトが感じられないし、同人誌と一緒にされては困る、という方がいるかもしれませんが、一方同人世界の例を挙げれば、アニメのキャラクターを凌辱し性的暴力を奮うような漫画が作られ、それが大ヒットしている例もあります。
どちらの方がリスペクトがある、という天秤にはかけられない。
人気のある二次創作の中に、第三者から見てこれが果たして作者への愛だろうか、という作品は挙げようと思えば山ほどあり、その度合いにグラデーションがあるだけで、単に全て二次的な創作物だ、というのが客観的な考えかと思います。


丁寧にキャラクターの創作イラストや漫画を作って楽しむ人もいる。
キャラクターの画像を加工してカットして新しいイメージを作って楽しむ人もいる。
私は、二次創作の中で差別があってはならないと思っています。
二次創作はそれを文化として正当に評価し、自由な表現ができるような制度ができるべきです。


善と悪が決まるのは、同じ正義を共有する人たちの中だけです。
私は、違う正義を持つ方には、梅沢の創作性の主張をすることによってある程度のご理解をいただくしかないと思っています。




では、作品の創作性や完成度についてのお話をします。



梅沢の作品を一目見た方の中で、「これくらいのコラージュは誰にでもできる」という意見は多々あるものです。
しかし、人間が行っている以上そこに"個性"や"人間性"が現れます。


コラージュは"編集"作業です。
例えば、まったくなんの変哲もないリンゴを、10人で描けば、10人でまったく違う絵になります。それが"個性"の一つのあらわれです。
「コラージュ」「編集」も同じことと思います。編集は、人の手によって様々な世界を結び、編んでいく作業。
選ぶ素材、切り取り方、置き方は千差万別で、「一定の素材を組み合わせて作るイメージ」は、理論上無限にあるとも言える。
そしてそれは個人の記憶や知識・感覚(センス)に大きく左右されるのです。


余談ではありますが、私は梅沢に、私が選んだ画像のみを使って作品の制作を依頼したことがあります。
最終的に出来上がったものを見て、私は考えもしていなかった体験をしました。
出来上がった作品は、1ドット単位でどんな画像が使われているか把握できるのです。画面の端から端まで、まるで私の脳が届くような感覚でした。
ゼロからコラージュ制作をして、画面のすべてをコントロールしている彼は、普段の作品においても、私以上の感覚を体験しているのだろうと思いました。
保存、選択、切り取り、移動、配置。作品内の画像の歴史全てが彼の脳に記録されているといって過言ではありません。
断片を指さしたり、元ネタを聞けば、彼は何をどのような意図で使ったかを喜んで紹介してくれます。
私はそこに、元画像への愛を感じられずにはいられません。



では、皆さんが「これでアートと言えるなら俺もアーティストになれる」と思われるなら、その通りだと思います。
ただ、職業として美術家をやっていくのには、その場のワンアイデアでは無理です。
また梅沢を例に挙げますが、彼は大学の卒業年前後から既存の画像をコラージュする手法をはじめ、これまでの4年間、その手法に絞って研究を重ねてきています。
それを長期間、時には人生すべてを使って継続できるかが、美術家の才能・実力の判断にも繋がります。
数十万画素の画像や、12GBの画像ファイルのとり扱い、数メートル四方の巨大な出力の方法、コラージュの構成、使用する画像の選択。
アーティストはアスリートのように、環境の構築に時間を費やし、自分の感覚に磨きをかけて、独自の作品を作っていきます。


創作を経験している方になら分かるかも知れませんが、絵はほんの0.数ミリ単位で印象が変わってしまうものです。
パソコンに向かって、数ドットのコントロールで絵を作り上げていくことは、それこそ経験によって養われることで、膨大な経験を積むことによってしか見えてこない、という部分は、必ずでてくるのです。
それがどんなものなのかは、追及しないと、永遠に見られないものになります。


完成作品の好みは人それぞれとはいえ、その作品制作が一筋縄にいかないことは分かって欲しい。



アート作品としての価値はどうか、という考え方もあるでしょう。
やはり美術史上で既存のイメージの引用というと、シルクスクリーンでイメージを転写する作品を作るアンディ・ウォーホールや、既製品の便器にサインをして作品だとしたマルセル・デュシャンが有名でしょう。
(私はむしろ、一般の意見がこういった例を挙げるときに、その引き出しがいつも、活躍が約50年前にもなる彼等で止まっていることを残念におもいます。)


もちろん、美術を分野に活動していればウォーホールデュシャンの存在はあまりにもメジャーですし、彼等の出現から何十年という年月の中で、世界中の何千何万人という美術家が、その作品を一度は真似たり、応用したりしてきたでしょう。
美術を勉強している身にとっては、本当に分かりきったことです。
ではイメージのコピーを作品にするのはちっとも新しくないじゃないか、と思われるかも知れません。


美術の分野において独自の表現や新しさを求めるなら、まず自分の今生きている場所と時間について考えるべきです。
梅沢は"キャラクター"と"画像"をテーマにすることで見事な解決をしています。
日本の特殊なインターネット文化、キャラクター文化、オタク文化を、"オタクの視点"からコラージュとして組み合わせています。
今、日本だからこその表現であるのに加え、出来上がった作品はネットワーク構造そのものを思い起こします。
小さな小さな断片だけになったキャラクターからも、不思議とキャラクターのイメージがパッと浮かび上がったり、そこから連想ゲームのように違う作品のキャラが並んだり、色が連鎖していったり、と、ネットサーフィンをするかのような視覚的な楽しさを体験させてくれます。
時に画面の上に塗られるアクリル絵の具や、接着されたフィギュアの断片は、それが幻想のイメージではなく現実にある物質の集合であることを、目を覚ますようにふっと思い出させてくれます。


同じテーマで制作をする美術家も他にいるかもしれませんが、デビューしたての美術作家の中であれば梅沢はダントツだと、私は本気で思っています。
画像だから、というひとつの単位の中で、キャラクターでも実写人物でも記号でも図形でも具象でも抽象でも、あらゆるものをひとつにしてしまう。
このあまりに暴力的ともいえる表現と、情報の密度は、圧倒的といえます。
それは、この大量の画像のコラージュという手法でなければ、絶対に絶対に、見られないものです。



「グレーゾーン」を叩き潰すことは、即ち可能性の芽を叩き潰すことに等しい。
私はまったく安全なところから問題を投げかけたりするつもりはありません。しかし、表現を妥協して活動する気もありません。
デジタルコラージュの可能性に賭け、「誰もが見た事もないイメージ」「高次元のビジュアル」が生まれることを信じている。
だからこそグレーゾーンにおける活動を支持するのです。


「アートだから許される」「アートは偉いのでOK」というようなことは全く言うつもりはありませんし、思ってもいません。反吐が出る意見です。
私はグレーゾーンにおけるあらゆる創作活動に、正当に価値を認めるだけの可能性が秘めているし、素晴らしいと思っています。
アニメの二次創作漫画から、ニコニコ動画MAD作品。それが生まれるコミケや動画サイトのような土台とコミュニティ。
これらは私達に思いもよらない体験や、感動、思わぬ発見をさせてくれる、これが本来の芸術だといいたくなるようなエネルギーを持っています。


もちろん、他所の作品をそのまま横流しで販売してしまう「海賊版」、さも自分で努力して描いたかのように見せる「トレス」、作者を偽って手柄を横取りする「転載」。
このように他の努力をさも自分の仕事であるかのように"偽る"活動はしかるべき処分を受けるべきだと思います。
開き直ればいいと言いたいわけでなく、やはり争点はその仕事がいかに純粋に文化を尊敬して表現できているか、という部分にかかっていると思うのです。



作品に値段をつけて流通させる、という点に、不誠実さを感じる人も多いかも知れません。
しかし、私は以上のような表現力と可能性を秘めた美術作家にこそ、職業としてのアーティストの資格を持ってほしい。
多くの自称美術家を敵に回すかもしれませんが、私が常々思うのは、ただキレイとかカワイイとかカッコイイを求めて制作をしているようであれば、ただの趣味だということです。
もしくは、誰かに何かを伝えるためのデザインやイラストレーションを制作しているといえます。
(趣味で絵を描いている人やイラストレーター・デザイナーをバカにしているわけではありません。対象は職業としての美術作家を名乗る人の中でのことです。)
自分自身が本当に表現したいことを考え、発見した問題について作品という形で表して、それを社会への還元していくのが、職業としての芸術家なのではないでしょうか。


しかし実際、今の日本の美大生・美術家には、職業として美術家をやっていくつもりがあるのかよというのんきな人間が山のようにいるのは事実で、それは大変嘆かわしいことです。
学費や制作にお金ばかりつかう癖に、社会や世界と向き合わない。そんな人は実際に溢れています。
現代美術というものも、まだまだ狭い業界内で騒ぐだけで終わっていて、若者の元にも降りてきやしない。
「アート」という言葉に信頼がなくなるのも当たり前の現状があり、私はそれを疑問に思うし、変えていきたいのです。



私は今後も梅沢のアーティストとしての活動を全力で応援しますし、私自身も様々なイメージを引用して新しい表現を目指すつもりです。
ここまで細かく梅沢の作品がいかに価値があるかという根拠に成りえることを主張させていただきました。
それでも今まで書いた、上記のような創作のあり方が絶対にあってはならないものだ、と思われるなら残念です。
納得がいかない方はご意見をいただければ幸いです。


では実際に梅沢の作品は存在意義があるのか、梅沢の作品に価値はあるのか、価値が出るのか?
ここまでの主張がそれを完全に保障しているとは思いません。


梅沢の作品の価値は、その作品を見た人たち一人ひとりが決めることです。
ネットと表現について深く考える人や、美術について興味のある人達などなど、それらの誰からも必要とされないなら私たちがどう頑張っても、忘れ去られて、自然消滅することになるでしょう。
その作品の魅力を語る以前に、犯罪だときっぱり結論が出れば、その作品は消えていくでしょう。
もちろん、梅沢の作品を楽しんでくれる人がより増えれば、同時に、多くの人が納得する二次創作のあり方やシステムが生まれていくだろうと思います。


私は後者の世界を目指し、これからも精力的に活動したいと思っています。



客観的ではない主張で、感情にもまみれた文章だったかもしれませんが、ここまで読んで頂きありがとうございました。
引き続きこの問題について私自身も深く考え、勉強させていただこうと思います。


今回の記事は以上です。